|
小川治兵衛の庭
2:対龍山荘と無隣庵
平成13年11月21日、連休前に行かないと人ごみがすごいであろうと考えて、昼食を食べるとすぐ岡崎南禅寺境内付近にあるという“対龍山荘”に出かけた。地下鉄蹴上駅を下車して地上に上がると、パッと日の光が眩しく目の前に差し込んできた。目前の“みやこホテル”の建物を確認できると私は、右に折れて“インクライン”に沿って進む道を歩いて行ったのである。南禅寺前の複雑な五叉路の交差点あたりは、人と車で満ち溢れてごったがえしていた。山荘は南禅寺総門の手前を南に下がるとその門前にでる。立て看板が目印ですぐそれと知れたが、初めての公開とあってか、大変な人出である。
門前で切符を売る所は、門構えの写真を撮ろうと思ってもゆっくり撮らせてくれない。そしてその門前も秋の暖かな日の光に照らされていた。そこでもらった“対龍山荘”のパンフレットには次のように書かれていた。
「対龍山荘は、当初、薩摩出身の伊集院兼常が開いた屋敷である。その後、市田弥一郎の所有となった明治35年(1902)から明治39年(1906)に改修され、現在に至っている。
“対龍山荘”という荘号は、山荘背後の南禅寺の山号でもある瑞龍山に対するの意で、命名されたという。庭園の設計、施行は、明治から昭和初期の京都の造園界を代表する小川治兵衛(植治)が、又建築はのちに島藤建設を創設した“島藤”こと島田藤吉によるものである。明治42年(1909)発行の“京華林泉帳”に“風雅清雅にして其の構造に最も心を尽くしたるを見る”等の記載があり、作庭当初から注目を集めていたことがわかる。 庭園は、主屋の東に広がり、池を中心とする北側の豪壮な庭園と、流れを中心とする南側の優美な庭園に分かれる。小川治兵衛による作庭の前後の写真を見ると、北側は、旧来の伊集院兼常作庭時の姿を残しつつ整備されているが、南側については、小川治兵衛が全面的に改修して、“聚遠亭”付近の小池に流れをつなげたものと考えられる。
伊集院兼常と小川治兵衛のつながりは深く、小川治兵衛は作庭技術について、伊集院兼常から多くを学んでいた。この広大な庭園の二つの部分を違和感なくつなげられたのは、小川治兵衛が伊集院兼常の作庭を学び、その手法について熟知していたことが大きな要因となっていると思われる。・・・」
私が今までに見た小川治兵衛・植治の庭は、無隣庵、平安神宮、円山公園、東寺小子坊の庭であった。その中で印象に残る風景は、リズミカルに躍動する小川のせせらぎとそこに組み込まれた石組みの配置の妙、そして池と滝と芝生が一体となりつつ構成された軽快な響きは、私の胸に深く焼き付いていた。それはいつか身近な自然への郷愁を忍ばせているように見えた。
近代造園家の先覚者とされる小川治兵衛は、1860年、現在の長岡京市馬場、かっては京都府乙訓郡新神足村、山本藤五郎の次男に生まれた。早く母に死別され、専ら父の手で育てられ、明治10年18歳にして、当時家運栄し小川家の養子となり、種々な難苦を忍び家業の造園術の習得にはげみ、その始めは遠州流を学びつつも、後に植治流を確立したという。
だが始めから何もかも順調にことがはこんだわけでもない。養子さきの岡崎の植治に入ってから17〜18年間、日夜、寺院や冨家の庭の手入れに携わっていたものの、いずれも小園前裁に限られていたようである。
植治の生まれが神足村と知って私は、これは何かの奇縁だと思った。「山崎の戦」で秀吉に破れ、勝竜寺城に逃げ込んだ光秀は、その神足村から闇にまみれて敗走した地点であった。つい先日、私はその勝竜寺城付近を歩いたばかりであった。
植治が活躍した明治から大正・昭和にかけて、新興のブルジョアジらは独自の文化を求めて、新しい西洋の価値観や様式の導入に努めながら、伝統的日本文化の良さも愛好した人達でもあった。植治が30歳半ば過ぎたころに、彼に大きな転機が訪れた。
明治の元勲・山県有朋の別荘・“無隣庵”を作庭する機会にめぐりあえた植治の、その頃の京都の地には近代化の波が押し寄せていたのである。無隣庵の地は、その象徴というべき琵琶湖第一疎水の入り口にあたり、すぐ近くの岡崎周辺は、平安遷都千百年記念祭と第四回内国勧業博覧会の準備で沸き立ち、水力電力による日本初の電車が今まさに走ろうとしている時であった。
この“無隣庵”の作庭には、最初から有朋の奔放な注文がつけられた。まず“もみ”を50本ほど入れよと命じた。京都の作庭には“もみ”などと申す樹は、決して用いられなかったそうである。施主の注文でやっと“もみ”の若木を探して来た。次に“どうだん(ドウダンツツジのことと思われる)”や“柊南天”を入れよと言う。これ等の植木を用いたのは、ここが始めてだと後年植治は述懐していた。この際入れた“もみ”が今日も30余本も、植え込みとなって庭園の一辺を限っている。一体“無隣庵”の庭園には高価な樹木はあまり用いられていない。松の樹のような金のかかる樹は極度にさけている。いや松の樹が全くないのではない。手近の堀ぎわの植え込みの前に、石垣をめぐらした二株の松樹がある。これは前に明治天皇から、京都御所の御苑にあった稚松(三尺ばかりの松)を拝領して植えたのであったが、今は随分大きな樹になっている。このように“無隣庵”は財を費やすこと少なく、極度にむだを省いて立派に仕上げた庭園で、この造園の奥義をたちまちに良くのみこんで、自家の仕事を活かしたのが植治であった。
こんな話も伝わっている。ある日有朋は、
「お前、庭を造るのに、どういう本を読んで、覚えたのか」
「えっー」
しばし、ためらっていた植治は、やがて思いつきの書名を幾冊かならべたてた。有朋はそれを手帳に書き付けた。一と月ばかりたって二人はまた顔を合わせた。
「お前は俺を素人だと思って、だましおったな。お前の言った書物は皆読んで見たが、一向にお前のやっているようなことや、言っているようなことは一つも書いてないぞ、人を馬鹿にするかっ」
とのおこごと、叱られた植治は平気なもので、
「閣下は軍人のくせにお庭が好きで、こうだああだと言われますが、それは素人芸です。素人が本職のわたくしに向かって、何のかのと言うが、実は生意気だと思いましたので、すこし庭師の戦略を使ったまでです。わたくしは本などは読みません。しかし永年の経験で、ひと目見れば、本に書いてある以上のことがわかります」
このことがあって以後、有朋は一段と植治を信用するようになったと伝えられている。有朋は実にさっぱりした人で、事がわかれば同じ事をくりかえし言うことはなかったらしい。世間では植治が常に有朋に楯ついたなどと伝えているが、作庭については、植治などより遥かに先覚であった有朋はいつでも植治の申す通りになったのでなく、放胆な構想を申し聞かせるのであった。一つ聞いて、十を知る植治は、有朋の意のある所を察して、その注文に応じたのである。もともと有朋はかなりせっかちな性格、そこで注文にかなうように仕事が進んでいると、頗る満足で、得意の筆蹟を振るってそれを与えていたようで、現に植治の家には山県の筆蹟が幾枚か保存されている。このような話からわかるように、“無隣庵”の作庭には施主有朋の精神が濃厚ににじんでいるのであり、それを助けて尽くしたのが植治であったのである。
なお“無隣庵”の庭園で珍重すべきは水の扱いについてである。現在でも細長い地取り
は、草川と呼ばれた小川の流域であった。ところが草川の流れだけでは一千坪の庭を潤すことができない。そこでそのころ出来て間もない琵琶湖からの疎水の余り水を五丁ばかり上流から庭内に引き込み、それを地下から湧き出させて滝口とし、それを瀑布にして、その水を庭園に回流させ、座敷に近づくと共に、浅き渓流となして、快きせせらぎの音を出させるよう工夫したのである。奥まったかなたの瀑布のひびきと、このまじかのせせらぎとは相応じて諧調をかなでるように趣向がこらされている。しかもこの清流には、子鮎のような小魚がたえず飛び跳ねており、その威勢よき水しぶきも添わって、繊細なる音楽をかなでる仕組みはたしかに抜群の極致と申してよく、普通に見る池水をたたえて鯉や鮒を遊ばせというようなやり方をさけている。
(参考:山根徳太郎著「小川治兵衛」・発行者小川金三)
その当時までの京都の庭園は幽玄ということに重点がおかれ、雄大・豪壮というような風趣が少なかったようで、多くの庭は規模の小さい、茶人くさいものであったらしく、有朋はそのような京都の伝統的な造園法に反発する姿勢があったように思える。
苔をやめ芝をはり、滝石組みの岩間にシダを植え、京都の庭園にめったに使われたことがなかった“もみ”を群植し、東山の形姿を借景として取り込み、池をなしにして小川のせせらぎを採用し、明るい田園風景や山村に見られる小川の風景を取り入れた庭園デザインを有朋は植治に示したようである。
流れる水辺に巧みに配置した置石や低木・草花の植物をほどこした技法は絶妙としかいいようがないものであろう。それはまさに、有朋の期待を上回る植治の手腕であったと思われる。有朋のセンスは、そのころ東京で流行していた和洋折衷式の庭をミックスしたものに近かったらしく、その後の京都の新庭園におよぼした影響ははかりしれないものがあったに違いない。
“無隣庵”の作庭中の植治は突然、
「山県さんに行っている植木屋を呼べ」
と、その当時の中井知事から平安神宮の作庭をまかされる。他の有力な造園業者をさしおいての植治の抜擢は、有朋の人脈によるものであったろう。少ない予算に苦労しながら、植治は彼独自のデザインをそこに表現して造園し、大規模庭園工事のノウハアをもそこで会得したらしいのである。
“無隣庵”の造園がなされたのは、1895年(明治28)の頃で、それより少し前、1894年(明治27)、伊集院兼常が自ら設計して営んだ“対龍山荘”の造園に、植治が植木屋として造園にいそしんだらしいことは、先のパンフレットから推察出来る。
伊集院というのは、平安時代後期以降地名化したようで、1897年頃田数185町くらいだった。現在の鹿児島県日置郡の中の町である。島津家三代久経の弟忠経がこの地の地頭に補され、以来その子孫が伊集院と称したらしい。いわば島津一族である。明治・大正時代の外交官に伊集院彦吉がいるが、兼常と彦吉とは同時代の人間であろう。
長州と薩摩の異色庭園感覚の持ち主の二人に出会った植治は、まさに好運だったと思えるが、これら二人に対した植治の、対応しえる能力を持ちえていたことを評価すべきではないかと、私は思うのである。
帝国京都博物館(現・京都国立博物館)の作庭では一万坪の敷地を一ヶ月あまりで仕上げるのである。まさに驚くべき機動力で、この頃から植治の名は世に知られるようになったらしい。
それからの約10年間、明治40年ころまでを、植治の作風の確立期であったようで、その舞台は、疎水の水を利用しやすい南禅寺境内の南端地域が中心であった。かって植治が大きな影響を受けた伊集院兼常の邸宅は、その後、清水喜三郎氏が引き継ぎ、そのあと京都室町筋の呉服業界の巨頭市田弥之助がこれを買い取り、明治34年(1901)から4カ年を費やして、大々的に手を加え建物をも新築し、その庭園を作庭したのは植治だった。建築を請け負ったのが島田藤吉である。
そのころの南禅寺の境内地のほとんどは上知され、その土地所有は激しく揺れ動いていたらしく、これの目をつけた塚本与三次は、疎水沿いの地域を含む東山一帯の風致保存と宅地化という京都市の方針を受け、別荘地開発を有利と見たようである。「庭付き高級建売住宅」の販売計画を考えていたらしい。水力発電の出現で不要になった疎水沿いの水車の権利、いわゆる疎水の水利権を京都市からすべて買い取っていたようである。一方植治も早くから水車業者と接触をはかり、水の流れを作庭の基本としたい植治は、塚本の計画を知って彼に接近して行ったらしい。南禅寺界隈における別荘地開発の進展とともに、植治の造園活動も末広がりに広がっていったのである。この植治の造園業・経営戦略は見事というほかはない。明治以降の庭師としての植治の名はいやが上にも高まったのはしごく当然のことであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人の出入りが激しくて、門前地に敷かれた切石をゆっくり見ることは出来なかったが、大正4年に東伏見宮殿下をお迎えするために、敷き並べられた切石は花崗岩であるようで、その格調高い黒灰色の色調は、長年の“履物”で踏み込まれ、一段としぶい艶を見せて輝いていた。門を入ると正面は表玄関、右手に内玄関らしいのが見える。その内玄関までは砂利敷きの中を真っ黒な畳石がS字型の曲線を描いていた。ゆっくり見ようと思ってそちらの方に行きかけると、
「ここから先はダメなんです」と,
係員の大きな声が背後にして、私はびっくりして立ち止まった。
玄関をゆっくりながめる。玄関前に、木々が人を出迎えるように、円く覆うように日の光を遮っていた。白い壁と薄茶色の建物の木質の色とが際立って目に迫ってくる。
玄関先から上がり口の部屋を仕切っている襖は開けられていて、中の部屋まで見通せた。その襖の上の欄間は“障子”で、なんとそれらの組み合わせが、私にはいかにも新鮮に見えたのである。その部屋から左手に行くと、書院の“対龍台”に出られ、真っすぐ行く
と、茶室や“聚遠亭”に行き着く。右手はこの山荘の主屋の座敷なのであろう。
私は玄関先を離れて、左方の小径へ行き、中門の見える方に歩き出した。ふと気がついたことだが、書院の建物を支える基壇を隠すように、丸みを帯びた石を三段に積み並べているのを見た。なんと味のある細工だと、私はその時思ったのである。前方に見える中門は、茶室の前庭にある小門のように、品良く垣根の横に立っていた。
 |
 |
| 対龍山荘のハゼの紅葉 |
対龍山荘のドウダンツツジの紅葉 |
中門をくぐると私の前方の視界に飛び込んできたのは、「あっと」驚くような庭の風景であった。すぐ前は池で、池を囲む樹木の群れの向こうに、東山の山並みのなだらかな形が姿を見せていた。思わず私は、デジカメのシャッターを押していた。そのあたりの人影はものすごく、腰掛待合の“吟風”に近づくのが大変であった。やっとのことで待合の中の腰掛に座ったのはいいが、まるで前は人の頭ばかりで、向こうの景色などは見えるわけもない。その土間はゴロ石の畳敷きで、私の足の下には形良くふっくらと盛り上がった“踏石”があった。ふと右手を見ると、丸く切り貫かれた壁の向こうに“燈籠(とうろう)”があった。胴体に三日月の形のくぼみが見られ、それはそのように繰り抜かれていて、薄笑いをしているように見えたのである。本来ならこの場所は茶室への“待合”で、ゆっくり前方の風景を楽しむように造られたものであろうし、秋の夜であるなれば、月を見る所であったろうと思ったが、今日はそれ所ではなかった。
やっとのことで人ごみをぬけだし、私は“対龍台”の下に来た。私の眼上に九畳の間の書院があって、“縁の手摺り”が舞台造りのように乗り出していた。それほど太くない柱がそれを支え、その柱は味のある庭石のような根石の上にかしこまっているように載っている。“対龍台”の下は、ゴツゴツと積み石が並べられていた。だがそこは池泉の水辺で、水流が吹き込んで来ているのである。その“流れ”を渡る“飛び石”がポンポンと置かれている。ダイナミックな“沢飛び”が私を待ち構えていた。この沢飛びの“飛び石”の景観は、京都の庭園のなかでもずば抜けたものに違いない。その“沢飛び”を行くと、護岸の石組の間から橋杭のような大きな円星宿形の手水鉢が、縁廊下から使用出来るように据えられているのである。どうやらこのあたりの設計は伊集院兼常のものであるようで、その豪快さには驚かされる。伊集院は薩摩藩で建築を担当していた武士で、維新後は区内商工匠寮、海軍省営繕局長、工部省営繕局長等を歴任し、日本土木会社の社長を務めた。植治が伊集院からさまざまに影響を受けたというのは頷けることである。
 |
 |
| 対龍山荘のあずま屋 |
対龍山荘の水車小屋 |
パットと私の目の前に鮮やかな紅色の木の葉の束が迫って来た。イロハモミジの紅葉よりややオレンジ色をおびた“ハゼ”の鮮紅に、思わず私はそこに立ち止まった。京都には“ハゼ”や“ナンキンハゼ”の木は比較的少ない。それだけに目につきやすい。鮮やかな紅葉に出会えるには、昼と夜の温度差が大きい日々が続くことが重要な条件であるらしい。今日は運のいい日であるようだ。念入りにデジカメを構え、息を吐くようにシャッターを押した。
私が歩む苑路はそのあたりから南に向いて続いているようで、軽快な水の流れと建物の間を、ゆるやかな起伏を持たせつつ進んでいる。振り向いて北辺あたりを見ると、そこは少し高台になっているらしく、池泉が下に見えた。池の中島辺りの樹木の“青さ”の中
に、ひときわ目立つ“ハゼ”の紅の一点が、松木の陰にあるのが目に入って来た。建物
は、茶室「道案囲」と「四畳半」と「聚遠亭」が並び、その脇をゆるやかに“せせらぎ”の水が流れて行く。垣根の横の“飛び石の小径”を行く手前に、“蹲(つくばい)”が見えた。そこへ降りて“流れ蹲”の前の平らな石にたたずむと、向こうに木々の間から燈篭が覗いていた。それは真に行き届いた景観の構図ではないか、と私はそう思わずにはいられなかった。
居間であろうこの山荘の座敷近くにきた。その縁先から聚遠亭の方を見やると、その亭の竹縁が眺められた。味わい深い縁側の姿であった。この居間の座敷は二階建てで、その二階からすぐ下の庭を見ると、ゆるやかな水の流れを一望にすることが出来るようであ
る。植治流の造園技法をとくと鑑賞するのにもってこいの場所であるらしい。“聚遠亭”の縁にガイドマンがいるらしく、人だまりが出来ていて、私はそちらに行ってみた。茶室のこと等いろいろ説明しているようであったが、要するに、ことこの山荘の茶室建築に関する説明であるらしかった。
このような書院や茶室の原型は、足利義政時代から始まったとされているが、義政の父・義教時代にすでに見られたらしく、茶室や茶亭の元祖は村田珠光で、その珠光の茶道に大きな影響を与えたのが一休である。
室町時代といえば、現在の日本文化の源流がことごとくこの時代から興っているのである。その点では、華麗このうえもなく、もし日本史に室町時代をもたなかったなら、私どもの文化はごくつまらないものになっていたろう。
当時、日本は中国とその南方までふくめた貨幣経済の中にすすんでまきこまれていたが、その貨幣が、外国文化をもたらし、それに触発されて日本独自の思想文化と生活文化あるいは新興芸術が醸成された。思想においては、たとえば禅があり、浄土教が普及した。
生活文化においては、建築様式が一変した。食生活も変わり、さらに芸術においては能・狂言、また茶や新様式の絵画などがむらがり興った。世はまぼろしである、と思いつつも、ひとびとは生きる娯(たの)しさを知ったのである
(司馬遼太郎著「街道をゆく・34“大徳寺散歩”」朝日新聞社)
現在の日本文化が室町時代の“一休が生きた時代”から興っていることを、司馬氏も指摘されているのである。だから私は、今ガイドマンの説明を聞いているうちに、一休を思い出していたのであった。
少し余談が入ったが、今私はこの“聚遠亭”の縁際から東方に広がる庭を見ている。すぐ前を緩やかな流れが右方(南方)に向かい、その先は小高い“台地”で、小松の群れが広がっていた。小径に沿って南方に歩くと、水の流れの一つは東方の台地からも流れてくる。その傾斜にのってやって来る流れは、山間から流れてくるように、シダ類やクマササのような下草類が密生している岩間から落ちて来る。その辺りを囲む樹木はいろいろだ
が、日陰で暗く樹木の種類は判らない。石塔のようなものが遠くに見えた。
居間座敷の前あたりにくる。向こうの小築山の台地に、小松とイロハモミジの下に、紅葉した“ドウダンツツジ”がパッと花が咲いたように彩りを添えていた。ドウダンツツジは鮮やかな紅オレンジ色で、見た目以上に美しい色彩を光の中に投げかけているようであった。
庭の南辺あたりから小径は丸く迂回するように、台地のほうに向かって行くようであった。芝生の小径は黒い子砂利が敷き詰められ、少し行くと萱葺きのような屋根が見える。台地上にあるという“四阿(あずまや)”である。それは芝生の広場にあって、園遊会場にも使われるような感じであった。小径はさらに北に進み、池の上に出る。眼前に池を見下ろし、書院などの建物も見え、そこにはこれまでとは違った風景を楽しむことが出来る。振り向くと水車小屋がある。水車が回っている。その向こうは“田”である。田舎風の風景を演出しているようだ。ゆるやかな水の流れや芝生やこの田園風景は、まさに“植治流”で、彼の得意技をほどこしている。
池の中島を目にすえながら降りてくると、“ハゼ”の紅葉が次第に大きく姿を現してくる。この紅葉の色彩はいつ見ても見飽きないのが不思議である。ちょうど庭を一周してきて、もとの“待合”のある場所に戻った。もともとこの池は植治が作庭する以前からあったそうだが、そこへ植治が大きな滝をこしらえたらしい。滝の岩組らしいのは東方にかすかに見えるが、私の老いた目には落下する水流が映って来なかった。そして“対龍山荘”を後にして私は、“無隣庵”に向かって歩いていたのである。
 |
 |
| 無隣庵のせせらぎ |
無隣庵の紅葉 |
“無隣庵”の門を潜り抜けて私は、以外なほど静かなことに気がついた。“対龍山荘”に行った人が、またそぞろ此処にやって来るのではないか、と思っていたことが間違いであったことを喜んだ。受付の人に、
「今日は静かでよろしいですね。抹茶でも飲んでゆっくりしますから」
と言うと、なにか渋い顔をされた。
「山荘の方は大変でした」
「そうでしょうネ」
私は庭への潜戸を入って、いつも日が当たらず薄暗い歩廊に立って、大きなクスノキを見上げた。すぐ近くに手水鉢が主屋のふちに一つ寂しげに立っていた。その歩廊を右に行くと洋館の方にでるが、私は主屋に向かった。その踏石に靴を脱いで部屋に上がった。誰一人いない。今日はゆっくり出来るな、と思いつつ茶が来るのを待った。おもむろにデジカメを出して、部屋から見える庭の風景をどんな角度で撮ろうかと考えていると、茶が運ばれて来た。一口二口茶を口に含んで、デジカメを構えようとしたら、ドカドカ人が来た。あわててシャッターを押そうとしたら、レンズの中にアベックが入っていた。なかなか庭の風景から消えそうもないので、そのまま風景の中に取り込んで撮った。
私は靴をはくと、ゆるやかな“流れ”に沿って歩いた。流れは二股に分かれるが、東方からの流れに向かって歩いていた。樹木の中に紅葉した木が数本あって、薄暗い日のかげにパッと花が咲いたような明るさを与えていた。滝口の石組を目の皿のようにして眺めるが、暗くてよくは見えない。また来た小径をもどり、主屋の二階建ての建物を見やりながら、茶室のある方に向かった。
「帰りに府立図書館にでも寄るか」
そう思うと、“無隣庵”もそこそこにして私は表に出たのであった。“無隣庵”は何度も来ているからで、「また来ることもあるサ、」と考えたのであろう。ここは静かで、ゆっくり休憩するのにもってこいの場所だからである。
「引用及び参考文献」
1:「対龍山荘」パンフレット、2中根金作著「京都:名庭百選」淡交社、2:尼崎博正編「植治の庭」淡交社、3:尼崎博正著「石と水の意匠」淡交社、4:司馬遼太郎著「街道をゆく・34“大徳寺散歩”」朝日新聞社、5:「国史大辞典」吉川弘文館
上記の「引用及び参考文献」をもとにしながら本文を書きましたので、上記の著者の方々の著作権を侵害しないために、本文の無断転載はなさらないようにお願いいたします。
|